チラ裏。

メモ書き文化のリスペクト

ニアにっき

よう考えたら5年以上Twitterしているので、ほとんどものを書くときにはテンプレがちらつくしネットスラングになりがちな自分がいる。今日は日記なので何も考えずに何か書くことにしようと思うんですけどこれは誰の役に立つんだ自分の役には立つか。構わんよ。

 

フォロワーさんが同ジャンルで小説を書いていた。それは間違いなく解釈が一致しておいしいのが目に見えてわかっている。でも私はそれを読まなかった。読まなかったというか読みたくなかった。それは自分のいびつに膨らんだプライドのせいだ。大人の線を越えてから自分は知識に貪欲ではなくなった。自分が書くもののそれ以上を書く仲良しのひとの文章が読めなくなった。自分が何も成長していないのを目に見せつけられている気がして、その人自身を嫌いになりそうだったから読めなかった。

悲しいなあ、なんでだろうなあ。黒宮はやっと自我を得たところなのでこういう感情は慣れないなあ。なんでだろうな、なんでだよ。ほんとうにもったいないよ。

自分は世界の出来事を全部見終わって飽きたら死ぬんだと思っていた。

居間でも割とそう思っている。

全部じゃなくてもこの環境で手の届くすべてを見終えたら飽きてしぬかもしれない。

それは自分の中にある理解できない部分なので、そこに火が付かないことを自分自身が一番祈っている。

 

二年ほど前に叔父が死んだ。

物心ついてから亡くなった親戚は叔父が初めてだった。

叔父は母方のひとで、長男だった。私は叔父のことをパパと呼んでいた。自分の父はお父さんだから、叔父はパパ。幼いころからずっとそうだった。数年ほど前から叔父は体を壊し入退院を繰り返していた。浜育ちの日に焼けた顔から贅肉が落ちていることにたとえようのない不安を感じた。毎年母方の地元では夏にお祭りがある。私ら一家もいとこ一家も毎年少なくともそこで顔を合わせるわけだ。

二年前、私は持病で短い入院生活を送った。その病院に、叔父も入院してきた。私はすでに退院していて、通院を続けていた。二週に一度、その病院に通っていた。

叔父の症状が重いことを母から聞いた。わたしは現実味のないままに長女らしく真面目に聞いた。死の概念が理解できなかった。

その日は来るべくしてやってきて、その日は早起きせざるを得なかった。

叔父はそのままの姿で従姉妹宅にまだ横たわっていると聞いた。わたしはそこへはいけなかった。死を呑み込めなかった。

いつもつらくなると死が頭をよぎっていた。死についてますますわからなくなった。

もちろん近縁の親戚なのでその後告別式やら葬式には参列した。

なにもわからないままもう二度と叔父に会えないことを突き付けられてしまった。

もっとお見舞いに行けばよかった。もっと話せばよかった。

棺に納めるときはもう何もわからないまま二度と会えない事実だけを抱えて泣いていた。いとこ姉妹が泣くのを我慢しているのだから、自分も我慢しなければならないと感じて我慢して、しきれなくてただ泣いていた。もう今泣きそう。

その数か月後に夢を見たんだがやけに覚えている。

もういない叔父と夏の日のように食卓を囲んでいる。笑っている。でもその時は終わりが来る。明かりは消え、窓からは暴風雨が吹き込み、波が、波が入ってくる。

何もかも流されてしまい波が引いた後に私はひとりきりでからの貨物の空のコンテナのなかで目が覚める。コンテナの上に上り外を見るとそこには火の手が上がっていた。

そんな夢なんだけれどもいやに覚えている。特に何があったわけではないけれども。

死を目の前にしたので死に関して臆病になった。お涙頂戴のテレビではねっとりぐっしょりやってきやがるけどそんな生半可なものじゃない。中学生くらいに起きていたら人生観変わってしまう。もう何が言いたいんだ。死はその人に二度と会えなくなる、話せなくなることだと知った二年前の秋の早朝。

 

母方の地元ではまた今年もお祭りが始まる。

私はまたそこへ帰る。海のあるその町に帰る。