絵が描けないので3Dを触り始めた
絵が描けない。
描こうと考えて描いてみた期間はあるけど、脳の映像はうまく出力できない。
絵がうまくなって出力が抜群に良くなって人間と交流するときに武器を増やしたーい。
でもやっぱりそれは訓練するしかなくて、すぐにうまくなる方法なんてないわけですね。
というわけで3Dを触り始めました。なんで?
いろんな理由はあるんですが、とにかくVroidというソフトが導入として便利すぎた。
リリース当時から面白そうだな~と思っていた、Vroidに手を出した。
前々からカスタムキャストやらVカツやら、アバターを作ることができる媒体は興味があったし環境が可能であればVRchatとかも導入してみたいなあとぼんやり考えていた。
Vroidだって出てからかなり経ってるのに何で今更かというと、
突然夢創作にハマったというか…落ちたからだ。
顔のある、自分の分身ともいえる男の夢主を作って悶々としている。
夢主とはいうものの、実質自分の作った創作キャラだ。
自分の作ったキャラというヤツは、自分で生産しなければどこにもないのだ。
かといって自分は納得できるほどの絵は描けない。ということで冒頭の話になる。
Vroidなら人の形は破綻していないし、色味やサイズを変えれば自分ちの子が生成できる!すごい!
どうしてもカスタムキャストだと、既定のパーツや髪形のみでなかなか思うようにいかなかったのと、衣装やなんかは課金アイテムの方がいいものが多い。
Vroidなら自分で作れば思うようにできるじゃん…天才!となって触り始めた。
だけどむしろそれが罠だったんですよね。
罠というか…広い間口というか…
Vroidってすごく直感的にキャラのエディットができるんですよね。
各パーツを大小させるとか、拡大縮小するとか。
髪の毛に至っては自分で描いて生やすことができるし、ネット状の部分は慣れればアホ毛をはやしたり余分な毛を遊ばせることができる。
ただ、自分がハマったジャンルが顔の癖が強いジャンルだったからこう…
アイラインが全然足りなかった。
というかたぶん目の形状自体は変えられないので遅かれ早かれこの難関に気づいてたってわけですよ。目の縦横の大きさとか開きは変えれられるけど目の形は変わらないんでね。もっとシャープな形にするとか極端なジト目にするとかだとVroidだと手が届かないわけで。
そしてついに手を出したのがblenderということなんですよね。
もうすごい、なんでもできるが故に何から手を付けていいかわからん。
UIが林檎製品ナイズされて簡易な感じなのも結構とっつきにくい。
ショートカットわからん、クリック操作メインでやらせてほしい。
まだ手を付けて三日くらいなんですがウオオ思い通りに物作れる!って感じじゃ全然ないです、むしろナンデ…ドウシテ…ばっかりです。
でも楽しい。
自分の思い描いてるものが出力されて人に伝わるかもしれない、っていうところが。
まずは頂点のくっつけ方と…あとVroidで作ったモデルの裾の修正と…あと眼鏡とかピアスとかちゃんと作って…作れるかな…わからんけどやればできるさ!の精神で飽きるまでは頑張ろうかなって思ってます。
せっかくだしVroidで生成した自キャラの絵置いとこうかな、モチベーションの為に。
こういうのTwitterに書いてもしょうがないから久し振りにブログ書いてみたけど自分の話するときどうやって文章書いてたか全然思い出せなくてだいぶ困った。
終わり。
ニアにっき
よう考えたら5年以上Twitterしているので、ほとんどものを書くときにはテンプレがちらつくしネットスラングになりがちな自分がいる。今日は日記なので何も考えずに何か書くことにしようと思うんですけどこれは誰の役に立つんだ自分の役には立つか。構わんよ。
フォロワーさんが同ジャンルで小説を書いていた。それは間違いなく解釈が一致しておいしいのが目に見えてわかっている。でも私はそれを読まなかった。読まなかったというか読みたくなかった。それは自分のいびつに膨らんだプライドのせいだ。大人の線を越えてから自分は知識に貪欲ではなくなった。自分が書くもののそれ以上を書く仲良しのひとの文章が読めなくなった。自分が何も成長していないのを目に見せつけられている気がして、その人自身を嫌いになりそうだったから読めなかった。
悲しいなあ、なんでだろうなあ。黒宮はやっと自我を得たところなのでこういう感情は慣れないなあ。なんでだろうな、なんでだよ。ほんとうにもったいないよ。
自分は世界の出来事を全部見終わって飽きたら死ぬんだと思っていた。
居間でも割とそう思っている。
全部じゃなくてもこの環境で手の届くすべてを見終えたら飽きてしぬかもしれない。
それは自分の中にある理解できない部分なので、そこに火が付かないことを自分自身が一番祈っている。
二年ほど前に叔父が死んだ。
物心ついてから亡くなった親戚は叔父が初めてだった。
叔父は母方のひとで、長男だった。私は叔父のことをパパと呼んでいた。自分の父はお父さんだから、叔父はパパ。幼いころからずっとそうだった。数年ほど前から叔父は体を壊し入退院を繰り返していた。浜育ちの日に焼けた顔から贅肉が落ちていることにたとえようのない不安を感じた。毎年母方の地元では夏にお祭りがある。私ら一家もいとこ一家も毎年少なくともそこで顔を合わせるわけだ。
二年前、私は持病で短い入院生活を送った。その病院に、叔父も入院してきた。私はすでに退院していて、通院を続けていた。二週に一度、その病院に通っていた。
叔父の症状が重いことを母から聞いた。わたしは現実味のないままに長女らしく真面目に聞いた。死の概念が理解できなかった。
その日は来るべくしてやってきて、その日は早起きせざるを得なかった。
叔父はそのままの姿で従姉妹宅にまだ横たわっていると聞いた。わたしはそこへはいけなかった。死を呑み込めなかった。
いつもつらくなると死が頭をよぎっていた。死についてますますわからなくなった。
もちろん近縁の親戚なのでその後告別式やら葬式には参列した。
なにもわからないままもう二度と叔父に会えないことを突き付けられてしまった。
もっとお見舞いに行けばよかった。もっと話せばよかった。
棺に納めるときはもう何もわからないまま二度と会えない事実だけを抱えて泣いていた。いとこ姉妹が泣くのを我慢しているのだから、自分も我慢しなければならないと感じて我慢して、しきれなくてただ泣いていた。もう今泣きそう。
その数か月後に夢を見たんだがやけに覚えている。
もういない叔父と夏の日のように食卓を囲んでいる。笑っている。でもその時は終わりが来る。明かりは消え、窓からは暴風雨が吹き込み、波が、波が入ってくる。
何もかも流されてしまい波が引いた後に私はひとりきりでからの貨物の空のコンテナのなかで目が覚める。コンテナの上に上り外を見るとそこには火の手が上がっていた。
そんな夢なんだけれどもいやに覚えている。特に何があったわけではないけれども。
死を目の前にしたので死に関して臆病になった。お涙頂戴のテレビではねっとりぐっしょりやってきやがるけどそんな生半可なものじゃない。中学生くらいに起きていたら人生観変わってしまう。もう何が言いたいんだ。死はその人に二度と会えなくなる、話せなくなることだと知った二年前の秋の早朝。
母方の地元ではまた今年もお祭りが始まる。
私はまたそこへ帰る。海のあるその町に帰る。
言葉にすればするほど消えるものの話
二次創作ってあるじゃないですか。基本的に私はその辺に生息している虫みたいな電脳生命体なんですけども。そして書けば書くほど迷い込んで添削した結果文字数ががくんと減って悲しんだり悶えたり、これは違うんだよばか野郎足りないんだよと暴れたりするんですけど。
そもそも140字制限のTwitterで二次創作の概念に触れたのがいけないのかもしれないと最近は思い始めた。
いや、利点は多いですよ?なんたってリアルタイムに感想や反応が見られて承認欲求はものすごく満たされる。ふぁぼ(いいね)は自分が認められている錯覚すら起こす。ただ書き物、もしくは小説を書くという面からみるとまるでなっていない。
Twitterで以前ぼやいていたことだけど、140字内での表現方法に慣れすぎると長い文章が書けなくなる。こうやってブログとか白紙のルーズリーフな場所であっても、冗長すぎて読みにくいんじゃないかと思って書くのを抑えている。気がする。
いやいやいや!そもそも私って作文が嫌いだったんですよ。
小学生の頃に毎日日記と称して作文書かされたことを根に持ってて。何も思いつかないのに、無から文章生み出せったって無理な話ですよ。今はほら…仕事以外人と話さないからしゃべりたいことはたくさんあるんで…二次元の話ばっかりですけど…さっきから「いや」と「そもそも」から始まる言葉しか思いつかなくて下唇かみしめてるんでやっぱり作文は苦手です。
二次創作なら自分の唯一の、言葉をいじくりまわすことが”誰かに評価される”んじゃないかって思っているんです。傲岸不遜なんですよ。
現金だし醜いし、結局それって自分の書きたいことじゃなくて承認欲求が勝っただけなので自分でなくてもいいんですよ。自分は代替可能な電脳生命体なので。
というかなんで二次創作なんだYO!って話をすると、絶対にそんなことはないんですけど、自分で考え付く程度のストーリーや登場人物は「すでにこの世に存在する誰かの創作物だ」って意識になっちゃうからなんですよ。
それいったらそもそも二次創作もそれじゃねえか!ってところに戻ってくるんですけど。二次創作はほら、原作で描写されなかった空白の数日間とか数年間とか埋めるの楽しいじゃないですか。不出来な自分から生まれた不出来なキャラクターじゃないから。評価されて世に出てるモノだから、自分がどう二次創作してもおいしいものになる!みたいな不確かな根拠?信頼?丸投げ意識?により、どうしても一次創作ができなくて苦しくて困り果てて無になったりするのです。
いやあ、文字は書いてるんですけど一貫性が全くないですね。
これが私の脳内の有様ですよ…とっ散らかっていて、移り気で、格好つけで。視界も狭いし、バリエーションもない。人間力が足りないんですよね…それは置いておこう。
二次創作でも、おそらく一次創作もそうだと思うんですけど、
自分は何か書くときは登場人物が出てくる短い動画を脳内で見ているのです。
色、風景、光、匂い、風、温度、感触、音もある動画を脳内で唐突にひらめくものだから、自分はそれをどうにかして外に出さなきゃいけない!誰かにこの素晴らしい光景を伝えなくちゃいけないと急かされるように書き始める。わけなんですけど。
映像を一字一句、自分以外の誰かに伝えることってできなくないですか。
いきなりいいわけかよ、ってことじゃないんですよ。
文字にすることで失われる動きってたくさんありすぎるんですよ。例に出すと、人間がニュートラルな時の状態ってどうやって描写すればいいんだって話。
男の人がそこにいます。立っています。穏やかな表情でこちらを見ています。
これだけで人がいる、男性がこちらを好意的な表情で自分を見ているのはわかるけど、もしかしたら胸の内では「自分を目の敵にしているけど、自分から信頼を得るために笑顔を浮かべているだけ」かもしれないし、「全力疾走してきたのでなんとなく頬が引きつっていて笑っているように見えるけど実は苦しい状態」かもしれない。
因みに今私は逆光で口元しか見えない、「自分に好意的だ」と感じられる男性が脳裏に映像として出てきたので不親切で足りない描写をしました。
何が言いたいんだ…一ミリもわからん…
つまり自分は脳内の映像に表現が引きずられるので「文章がト書きとセリフになって短くなる」ってことが言いたいんですよお。
みなさんだって、美術作品の絵に対してこの筆の流れから合流した色の混ざり具合が…とか、この技法を使ったのはこういった感情をこめて画家が描いたからだ、とか。
めったに考えないでしょ。私はあんまりしないです、する人がいたら申し訳ないんだけども。絵を見た時の感想は端的になると思うんですよ。
映画見た後も「すごかった」とか小並感あふるる感想になるんですよ。
死ぬほど好きな映画とかはこの五センチ手が主人公に伸びるところが云々ブツブツ言うでしょうけど。
総論としては、そんなあいまいなことしてるから文章量が少ないんだよクソが!もっとちゃんと深く描写してかけ!って自分に発破をかけたいだけです。
でももうPixivにあげたりPrivetterにあげたものとかはもう加筆できない。
あれで完成品で、書き直すなら八割書き直すことになるので…苦行すぎるし意味がない…
書きたい事三割くらい書いたので終わりです。
二次創作する元気ないのでまた充電します。終わり。